J 「天地の恩恵。日柄方位にとらわれない。氏子あっての神、神あっての氏子。
   合楽世界。宗教以前の宗教。実験実証。」
昭和五十四年七月三十日 朝の御理解
御理解 第三節 「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず         神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方         角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる         この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理         解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神         ありての氏子、上下立つようにいたす。」
 人間の真の助かりを、たったこれだけの文章の中にうたい込んであるというか、もう、しかも絶対の間違いのない今まで考え違い、思い違いを正さずにはおかんとしての御教。天地金乃神様が、教祖金光大神を神頼みなさったというそのわけは、この人間氏子全てに分からせようと、神というてよい程しの素晴らしい内容なんです。
 為には、先ず、私共が一番最初にありますように、「天地金乃神と申す事は、天地の間に氏子がおって、おかげを知らず」という事。これはもう、誰あってもです、いうならば、天地の御恩恵を受けずして、立ちゆくという事は絶対にあり得ないというその根本的な事を、一番はじめにおっしゃっておりますね。
 おかげをおかげと気付いていない。知っていないという事です。ね、次には「神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず日柄方角ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる」と、あまり簡単な感じですから皆がそれを、信じきらんのですけれども、本気に御信心が私自身そうですけれども、分かれば、分かる程、ここの所の素晴らしい事の、人間の本当の助かりにならないのは、こういう事も大きな原因だという事も分かります。
 私共が、お粗末、御無礼だと、いうなら、はじめてここに前々の巡りで難を受けおると教えておられますけれども、自分の物でないものを、自分の物のように思うという事。それは神仏の、例えば、神仏の宮寺、家屋敷というふうにです、ここは、何々様の境内だというふうに申しますけれども、なる程何々様の境内でしょう。
 合楽教会の屋敷は合楽教会の境内ないに入るわけですけれども、なら、それをもう一ついうと、合楽教会の物でもなんでもない神の地所だという。
 この辺の違い。そうしてどういう事かというと、ならば、天地に墨金を当てるような御無礼を平気でやっておる。いうならば、日柄方位。全然、金光教では日柄方位はいわんというのは、そういうわけなんです。
 天地に対して、これは何というですかね、ケチをつけるようなもんですよね。ここの土地は、よいとか悪いとかといったようなね。そういう事はないんだと、もう、これはそうですね、百年も前に、日柄方位、いうならば、迷信教が多い中にです、堂々とこの事をいうてのかしておられます。
 私共が、だからこれを味わってみて、なる程それこそ天地の中で、指一本で押すだけでも、天地の親神様の御恩恵に欲せない所はないという事が分かって、そして、日柄をいうたり、方位をいうたり天地に対する御無礼な考え方を捨て切ってしまう心の中に自由無碍な心の状態というものが開けてくる。
 そういうわけを知らないでおる、例えば氏子にですどうでも、そのわけを知らせたいという所に、「今般生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ」とある。
 だから、先ず、お願いに出てくる。わけは分からないなりに、神様に難儀のお願いをしてくるけれども、はじめからいうて聞かせたり、分からせたりという事はなかなかでけません。皆さんこうやって聞いて下さっても、実感としてです、本当にそうだなあと分かる人は、いよいよその体験に体験を積んでなる程、この世の中には日柄もなければ方位もない。なる程それこそ無一物だ。いや、一物だって自分の物はそれこそないという事は、これは信心をだんだん頂いてくるとそれが分かってくるんです。 ですから、そういう難しい事をはじめから教えたって分からんから、先ずおかげを授けとおっしゃる。はあ、この神様はあらたかな神様だなあと例えば分かる、ね。
 そしてですね、次に理解申して聞かせとこうおっしゃておる。これは皆さんそうでしょう。おかげを受けて、そして理解をお話を聞かせてもろうて、いうならば、本当の本当の事、例えば昨日の御理解など頂きますと、普通一般にいわれておる所の道徳とか、常識とかいったものを超えたもの、より本当のもの、それを私は超道徳とか超常識といったような意味で昨日は聞いてもらったですね。
 いうなら、本当の本当な事が分からしてもらうから、本当なおかげが伴うてくるというのです。そして最後の所に、いわゆる神様のお心を吐露するように、何というでしょうかね、訴えるようにというでしょうか、「理解申して聞かせ、末々まで繁盛致す事」こういう生き方をすれば、繁盛する事は神が受けあうといわんばかりにいうておられます。
 此の方は一代仏を嫌うとおっしゃるが、親の代より子の代、子の代よりも孫の代とそういう信心を継承して末々までも繁盛致す事、氏子ありての神、神ありての氏子という所なんかはね、切々として神の心が説かれてある。
 神様というてね、こう、天上高天が原にとどまってござるというのではなくてです氏子が助からねば神も助からんという神なんです。いうなら、全知全能ではないという事なんです。氏子がおらねば、神もおらんのと同じという事なんです。氏子が神を神と用いてくれればね、神の働きを現す事すらでけんという意味がここには説かれております。氏子ありての神、神ありての氏子、そこにはじめて、あいよかけよの世界というのがあるのです。氏子、上下立つようにいたす。
 神様と氏子とがいうならば、合楽し合える世界。氏子と神様が願い合い、頼み合いする世界。しかも神様と仲ようする信心。そこからいうなら、生み出されてくるおかげというものは、こりゃもう、無限大である。限りがないおかげ。そういうおかげの頂けれる道をお互いに習わせて頂いとる聞かせて頂いとるのだから、ここん所がですね、やはり本当に、そうだなあと信じれる所まで金光大神のお取り次ぎを頂いて、おかげを頂いていかにぁだめです。
 いかに日柄とか方位というものが、本当に他愛のないものかと、それは一つの系統だててすると一つの学問になるようなね、事だそうですけれども、そういう所が私が申しますお道の信心が、宗教以前の宗教だというふうに申しますのは、そういうわけなんです。
 宗教がそういう事を看板にするような宗教すらがあります。ね、それはそれで一つの理があるんです、やっぱり。けども、そういう生き方はどういう事かというと、災難がおきらんようにとか、困った事がないようにとかいうだけの観点からですね、いうのであって根本的な所が分かって、もうそれこそ、指一本押すだけでも神様の御地所でない所はないと悟りが開けて、聞かせてもらうともうそこにはね、私と神様だけがあるのであって金神様もござらなければ日柄もなければ、方位もない程しの素晴らしいいうならば、信心共栄の根本がそこにあるのです。
 この辺の所を金光教の信心ですると本当に分かにぁいかん。信心頂いとっても、そら、結婚に日柄をいうたり方位をいうたりね、家を建てるのにいうならば、家相をいうたりという事は、これは多分いうたらいけんじぁなくて、いうたら天地に対して御無礼になるんです。しかもね、そういう御無礼が前々の巡りで難を受けおるとおっしゃる。ね、
 泥棒をしたとか、悪い事をしたとかまあ例えば、そういうような事でそれが不幸の元になるのじゃない。人間の一番の不幸の元は、天地に対するお粗末御無礼だ、考え方だ。分かっていないとはいいながらそういう事なんだという事を、ここに明確に教えておられる。だから金光教では、めぐりというけれども、まあ、仏教でいう因縁と事実をいうと本質的には全然違うです、めぐりの為に難儀があっておる。因縁の為に難儀があっておるというのと違う。
 因縁とか、罪というのは金光教の信心では、おかげは和賀心にありという、和賀心をもってする事によって実は消えてしまうものです。という程しのまあ、ざあっとね御理解三節を説きますとそういう素晴らしい事の内容を私共が身につけて、それを信じてね、「天地金乃神と申す事は、天地の間におっておかげを知らず」といったような所からです一つ分からせて頂いて、それを実験実証さして頂きながら、なる程金光大神がいうておられる事は本当だなあと、分からして頂かなければならんという事でごさいます。
 昨日ここに出てまいりました十二時すぎでしたが、御祈念終わって休む前に必ず、テレビをちょっとこう引っ張って見るんですよ。それで、そこに何かこう感じるものがあるんです。それが明くる朝の御理解の材料になったりするんです。
 昨日は丁度、オリンピックのマラソンがあっておりました。午後二時過ぎまで実況放送ですからね。日本の伊藤という人が二番になりました。ね、
 あれはまあ、外にもいろいろ水泳とか何かもあっておりましたけれども、そんなわけで終わるまで見ておりましたもんだから二時。そして、最後にアナウンサ-が話しておりましたが、マラソンにはね、力走する事と完走する事。
 力走とは力いっぱい走る事。そしてね、例えば、どんなにおくれても最後まで走るという事をいうております。はあ、これは信心のごたるこつだなあと私は思わせてもらった。
 信心もそうです、力走しなければなりません。そして一服するという事が信心にはありません。完走しなければなりません。それこそ一生が修行じぁというのです。
 それが大変、例えばこう申しますと、金光教の信心ちゃ難しかなあというけれども力走しなければ、ばからしかです、本当。完走しなければ、ばからしいです。でないとね、嬉しゅうて、楽しゅうして、有り難くて、それこそ愉快なという事にはなってこないです。力走しないと。ただ、頼む事がある時だけちょっとお参りする、お伺いのある時だけ参るような事では、ただ有り難い事は分かっても、信心がいうなら身につくというか、血に肉になるという、いうなら、あの世までも持っていけるというような事にはならないです。
 だからこの御理解三節は本当にね、根本的にお道の信心をさして頂いて、いろいろ実験、実証さして頂いておかげを頂いていけばいく程です、ここの所が本当にそうだと一つ分かりこまんと、だからこの御理解三節は大変大切。
 これは御理解になっておりますけれども、実際は神様の直伝であってね、あのう、神様が直々に教えられたものだと伝えられております。ここの御理解三節は。
 だから、今日皆さんが聞いて下さった事をなる程と合点したならです、それを信じられる所まで日頃の信心実証によってです、日柄もない、方位もないという事をそういう迷妄打破する意味においてもです、私共をいうならば、広々とした自由の世界に住まわせて頂きたいと思うならば、そういう窮屈な世界から脱皮する為にもです、実験してみなければいけません。                         日柄もいらん、方位もいらん。そしてなる程という事が分からして頂く。例えば、世界の悪日といわれる十三日ですらが神様の願いが成就する日として合楽では大事にするでしょう。
 私は、昨日そのマラソンを見終わってから、お礼させてもらって休もうと思ったら御心眼にもう、沢山な観衆の丁度野球を観る時の、ずっと観衆席がありますね。それで中で何か競技があっておる所を頂いた。そして頂く事がね、中で何か競技をやっておるそれが、合楽の人達だという事を頂いた。それ以外の沢山の観衆が合楽以外の人達だと。キリスト教ではそれを選民と申しますね。キリスト教者でなければ、選民とはいわないです。
 もう、すぐりに、すぐられた人だとこういうのです。その意味は。私はキリスト教の事はよく知りませんけれども、私は、昨日その事を頂いてです、私共がそういう大きな自覚に立ってです、神様に選ばれに選ばれた選民だ。いうならば、神様に選ばれに選ばれた選手なのだ。だからその選手がです例えば、完走力走しなければならない事も、完走しなければならない事もです、いい手本を示して、それを合楽理念にまとめて合楽理念が助かりの理念だという実験実証者にならなきゃ、皆がそれを沢山の人が見ておるという事なんです。そしてなる程、今日の御理解でいうならば、この世にはね、日柄も方位もないもんだ、自分の物とは大体一物とてもないものだと、布一寸だって一切いうなら、神様の御物だという自覚から出来れば出来る程、神恩報謝の心というものは厚うなってくるわけでしょうが。
 神様に、これをいうならば、預からせて頂いとるんだという事が根本的に分かってくるから、うすらぱあっとした有り難いじぁない。しんから有り難いという事になる 私は、毎朝こちらに出てまいります時に、先ず、この家に住まわせて頂いた、一晩ここでいうならば、休ませて頂いたという事を本気でお礼申します。布団にしんからお礼申させて頂いてこちらに出て来ます。自分の物ならお礼いう事はいらん。ね、
 そういうね、生き方が全ての点にだんだん養われてくるわけです。お互いね、本当に合楽に御縁頂いたという事は大変な事だという事を、先ず分からにゃいけんです。 そして、天地金乃神様が金光大神を通してね、難儀な氏子におかげを授けとおっしゃるおかげを頂いて、頂いたら今日皆さんに聞いて頂いたような事が本当だ、真実だと分からせて頂いて、その線にそうた信心生活がでけて、そこに実証を見せながら、現しながら、世の中にいわゆる迷妄な人達が沢山ある。ね、世の中の難儀というものは、当然あたり前のように思っておる。
 この世は、苦の世、苦の世界だと決め込んでおる人達にです、私共がおかげを頂いて、こういう世界もあるんだよと、皆さんに聞いてもらったり導かせて頂いたりしてです、いわゆる神様と私共がいうならば、あいよかけよで立ち行けれる、神も助かり氏子も立ち行く世界にいざなって行かなければならない。そういう責任があるんだというね。
 私共は沢山の観衆ではない。もう中で選ばれておる選手なんだと。それにもう、小さい事に終止して、それに一生その信心でおかげ頂いたの、おかげ落としたのというておったら何々様も同じ事になるじぁないの。こういう金光教の根本的な事が分かってです、そこの一線上に出てです、なる程我神の選民だ、選手だという為には、いよいよその力も技も覚えていかねばなりません。ね、あの世、この世を通していよいよおかげを頂いていく為には、そういう信心がでけてはじめてあの世に持って行けるものが頂けるです。この世で沢山頂いたというのは、ありゃ神様に対する借金のようなものです。ね、
 金光教の信心の素晴らしいという事を大ざっぱにいうたら今日の御理解なんです。 ですから、勿論これは皆さんが、実験し実証してみてはじめて分かる事ですけれども、一つそこを本気で金光教の信心をさせてもらうなら、そこの根本的な所を分からせて頂いてです、神様に選ばれている私である、というそういう自覚が出来てまいりますとね、いうなら、私共の信心態度もいうならば、その使命感に立っての信心といったようなものが、はあ、信心ちゃ尊いものだなあというようなふうに分かってくると思うです。
 どうぞ。